納得できるやり方で、納得できるものしか作らない。 それが俺の料理哲学!
何にしてもそうだけど、名前だけを貸すとか、自分の写真をバーンと貼らせておいて、「うん、もうちょっと甘くしておいてね」なんていうレベルの仕事は俺は絶対にしない。そんなの仕事じゃないし、それでデザートだか知らないけど、買わされた方はたまったもんじゃない。それくらいなら、写真なんかホント小さくても構わないから、食べる人がいかにおいしく食べられるかを工夫しようよ、というのが俺のスタンス、絶対外さない原則なんだ。
いま『ファミリーマート』で展開している“ヒサマズキッチン”弁当などは、その典型。ご飯をどうおいしく食べてもらうか、その一点にテーマを絞っていつもメニューを考えた。よく米離れが進んでいると言うけど、俺に言わせればそんなこと絶対にない。ただ単に、ご飯をおいしく食べられるおかずが少なくなってきている、ということなんだろう、と思う。だったら、たとえば里芋をそれこそ見た目も鮮やかに、照り照りにして添えてやるとか、「うわ、これ飯食いたい!」と思わせるようにすればいい。おかずを食べながらうまいご飯をガツガツかき込めるような弁当を作ればいいんだ。
小田原『東華軒』の新作弁当についても同様。味だけではなく、食べる人に二重三重の“魔法”をかける。駅弁は電車の中だけで食べるものじゃない。家に持って帰ってもそれを食べることで、その土地の風景が浮かんでくるような弁当でなければダメなんだ。だったら、もう採れもしない地元の名産品にこだわるのではなく、たとえば箱根なら箱根で、
みんなにとっての“箱根らしさ”を出したお弁当作りを前面に出せばいい。箱根の山奥に住むおばあちゃんがお孫さんのために丹精こめて作った手弁当、あるいは小田原の網元、ゲンさんがよく食べた穴子の弁当・・・。そうしたコンセプトを大切にするのが俺のやり方なんだ。
塩や醤油、みりんのさじ加減などは、いくら正確を期しても調理の火加減、過熱時間などで微妙に変わる。そこまで考えずに、「これがレシピ」と片付けるくらいなら、やらない方がマシ。その点、マーケティングも含めたコンセプト作り、食べさせ方の工夫は、現場の人も巻き込んでの味作りにつながる。そうかっ、おばあちゃんが作る弁当だったら、煮物はもっと色を濃くしなきゃね、とか、現場の方でもどんどんアイディアが出てくる。それこそが俺の狙い。ストーリーまでも楽しみながら、“食”を楽しむということなんだ。
その発想は、テレビにも活かしている。主婦が何かを“しながら”見るお昼の時間帯。
振り向かせるには、むしろそれをラジオと思って、音でひきつける方がよほど効果的と考えた。フライパンがジャーンと鳴ったり、ジュワジュワ音をたてる。それでパッと見るんだ。「あ、美味しそう」って。
いまは、ボクシングで言えばほんの前哨戦、世界戦へのステップでしかないと思っている。だから、夢は世界ランカーになるために、イタリアの一等地に店を出す、プロセスを含めて日本料理のすばらしさを理解してくれる食通の彼らをキャンキャン言わせたる!と思っているんだ。それでしばらくして日本に帰ってきたら、今度はどんな寿将になっているのか?それが自分でも楽しみなんだよね。
基本的に俺は“ええカッコしい”だからね。“ええカッコしい”は最後の最後までやせ我慢して「何とかしたろ」と歯を食いしばる。二代目でも何でもないドチンピラの俺には、それしかない!腹を決めて人生を張るしかない、と思っている。
(株式会社廣済堂『QJ』誌より抜粋掲載)
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