平野寿将  〜Hisama Hirano〜  2003年6月26日更新

「まずは、めし。」

人の人生って矛盾だらけじゃない?

めしを食う行為だって、なんでめしを食うのか?って言ったら、明日元気に迎えるため、とか長生きするため、とかいろいろあるよね。でも、その先にあるのって死ぬことだけじゃない?結局人が頑張っているのって、死ぬために頑張ったり、めし食っているんだよね?それだけを考えたときに、死ぬために栄養を身体に入れてるっていう、こんなバカげたのも嫌だな、と思ったんだ。ほんと、矛盾でしょ?生まれてから、人の人生の中で確実に決まっていることって、それしかないもんね。同じ死ぬために口に入れているんであれば、俺は楽しんでめし食いたいし、好きなもんを食いたい。

病的に不健康にひとつのものだけを好む味覚も、俺は嫌だと思う。たとえば、肉好きです、とか・・・。医者から、アナタ肉はいい加減にしたら?と言われるようなのも、なんか俺は嫌だなと思うよ。幸いなことに、俺はバランスよく、いろんなものが好きなんだ。肉も悪くないね、でも俺の体に合っていると思うのは、一週間に1回、せいぜい2回で充分かな?みたいなのもあるんだ。ただ野菜は毎日欲しいなぁー、と自分で欲するわけ。たとえば大根なら大根の、それ自体の力・・・大根が持ち合わせている香りとか、パワーとか、みずみずしさ・・・を知ったとき、大根を旨く食べるパターン、大根卸しで食いたい日もありゃ、やわらかく、しかも薄味で炊いた大根を食いたくなるときもあるし、豚肉と一緒に、醤油色がしっかりとついたような大根も食いたくなるわけよ。たぶん自分の中で、なんかパワーつけたいなー、というなにかがあるんだろうね。そんなときは、ご飯もガツガツいきたいし・・・。ちょっと今日はアルコールはあんまり欲しくないけど、めしをかき込んで、みそ汁を仕上げに飲んで・・・みたいな・・・。晩ご飯で、ラーメンライスだけ、とかスパゲティだけとかって、俺の中にはあり得ないんだ。もうそれしか食べられない自分が哀しくなるんだよね。

これは環境のような感じがするね。たとえば、うちは夕飯にメインの一皿だけで済ます、ってことはあり得なかった。家はたいした金持ちじゃないし、なーんでもないんだけど、親父には、おつかれさまでした、の親父用の一品で酒の肴がついて、ばあちゃんには、ばあちゃんの身体にあったご飯があって、一方では俺と弟のためのおかずがあって・・・まあ6皿、7皿くらいはやっぱり何だかんだ、並んでいたんだ。だからどんなに貧乏しても俺、晩飯ケチったことないんだ。外食に行けなかったとしても、食い物ケチってまで、ものを欲しいと思ったこともないし。

食い物ケチってまでっていうのは、ある種さもしさだと思う、口卑しさとはまた、違うと思うけど・・・。俺は自分が満足に食うものを食えずに、欲しいものもないし、たとえ同じ金があったとしても、家族に満足なものも食わさずに、それで金貯めて何かをしても、俺はそんなものだったら、欲しくないよ。ものを食わす、っていうのはオスの原理だと思うんだ。どっかから猟して獲物取ってきて、それで腹一杯食え!と。ヒナ鳥やメスが待っていて、その口に思いっきりものをほうり込めるくらいの男じゃなくて、どーすんのよ?みたいなのが、俺にはあるんだ。そこで余ったもんで、なにか買えばいいしね。

だから俺はメシさえ食わしてたら・・・メシさえ、って言ったら大袈裟だけど、そういう意味での、ご飯というものを、食べさせる幸せを教えてあげさえすれば、その子はたぶん幸せなんだと思うんだ。一人でまずそうに、肩肘ついてめし食う子に育ったときに、コイツはたぶん女の子とのデートでも、たいしためしも食えんだろう、と思う。人と食う喜びを教えてあげておけば、そのうち年がきたら、レストランくらいエスコートできるだろうし。いろいろとめし食う行為は人生の中ででてくるからね。

俺はどんなに不良っぽくふるまっていても、昔からめしの食い方は人から誉められていたんだ。これはしつけでも何でもない、と思う。しつけ、っていう行為は、なんか動物的だけど、俺はこれはしつけじゃなくて、美意識のような気がする。めしを食いながら、俺は美意識を教えられた。しつけるって、どこか他人に迷惑をかけない、最低限のことだけで、美意識って、また別じゃない?男たるもの、めし食うときは、さもしく食うな、とかこうやってこうするんだ・・・とか、育ちが貧乏とか金持ちうんぬんでなく、食う行為って美意識の持たせ方を、大人が子供のころから教えてあげてたら、その子は案外といい男としてのふるまいが出来ると思うよ。